THE 読物  ~東 月彦の小説~

連載41 奈良三彩


 聚は今、品川・大崎にいる。
 彼は、民家の脇にある電柱の陰に身を潜めるように佇んでいた。
 そこからは、古い平屋造りの日吉能舞台の建物が見える。

 その夜、定期公演がその舞台で行われ、宗悦は『葵上』のシテの六条御息所を演じることになっている。
 聚が腕時計を見ると、午後九時三十五分をさしている。
 すでに公演は終わっていて、二十分ほど前に最後の観客が帰ってゆくのが確認できた。

「・・・・・」
 聚は煙草に火をつける。
 楽屋口の扉が開いて、内から五、六名の男たちが出てくるのが見える。
 その中に、宗悦の姿もあった。


「―――」
 聚はくわえていた煙草を指で弾き飛ばす。
 宗悦のまわりにいる男たちは、内弟子か、囃子方か、狂言方だろう・・・・。


 そして彼は、ジーンズの後ポケットに忍ばせていたハンティングナイフを取り出した。
 それは、つい一時間ほど前、渋谷のアウトドアショップで買ったものだ。
 刃渡り20センチのそれは、妖しげな青白い光を放っている。

「・・・・・」
 聚はしばらくその刃を見詰めていた。
 歌舞伎狂言『蘭平物狂』の蘭平は、在原行平の忠僕を装っているが、実は行平の命を狙っている。刃物を見て乱心するのも、それを悟られないためだったのだ。


「!」
 聚は舌打ちして、ナイフをその場に投げ捨てる。


「日吉宗悦!」
 次の瞬間、聚はそう叫んで、一直線に彼に向かって駈けてゆく。
「――な、何だーっ?」
 暗闇の中から突然大声がして、驚いた宗悦はその場に立ちつくす。


 鬼のような形相で突進してくる聚の姿を認めた宗悦の内弟子たちは口々に、「何だーっ、こいつ!」や「何だ、おめえーっ!」と叫んで、躰全体を使って押しとどめようとする。
「宗悦、てめえ、ぶっ殺す!」
 聚はそんな男たちを体当たりではね退け、右の拳を宗悦の顔面にむかって放つ。


 バシッ!
 聚のふり下ろした重い拳は、宗悦の左頬をとらえ、鈍い音がする。
が、殴られる瞬間に宗悦がさっと身を引いた。
「!」
 強烈なダメージにはならなかったが、宗悦は声にならない声で叫び、背後に転倒する。


「ふざけんなーっ、この野郎!」
 聚は荒い息をしながら、倒れた宗悦を蹴り上げようとする。
「―――」
 宗悦は殴られた頬に手を当て、驚いた表情で彼を見つめるだけだった。


「な、何、すんだーっ!てめえ」
 聚が宗悦の脇腹を蹴り上げるようとするその刹那、男の一人が彼の腕を取り、その太い二の腕を頸に巻きつける。
「は、放せーっ!」
 身動きがとれなくなった聚が必死にもがく。


 もう一人の内弟子が、聚の鳩尾めがけて、鋭い拳をたたき込んだ。
「ぐえっ!」
 聚は一瞬呼吸が出来なくなり、躰をくの字に曲げ、右膝をつきそうになる。
 また別の弟子が、彼の顔面めがけて、重い拳を放った。


「がっ!」
 聚の左目に激痛が走り、目の前が真っ白になり、その場に昏倒する。
 それからの聚は、内弟子たちの殴る蹴るの暴行を甘んじて受けるより他なかった。
 遠くで宗悦が、「この狂犬がー!」と叫ぶのを、聚は朧気に聞いていた。


 人間の良し悪しは、”際”で決まるのではないか。スポーツで例えるなら”球際”であり、”土俵際”ということになる。一般社会においても、”瀬戸際”においてこそ、その人物の性質がもっともよく表れる。


「・・・・・」
 聚の意識がなくなるのに、そう時間はかからなかった。
                          つづく


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