怪譚 屏風の虎
怪譚 屏風の虎
第一話 屏風の虎
第四回
◇
その朝、湖は、死んだように美しかった。
朝日を浴びた水面は金色に輝いて、神々しく、数羽の都鳥(ユリカモメ)が波間に浮かんでいるのが見える。
その城は、まるで雲を突き抜け、天にまで届くのではないかと思われるほどの威容を示していた。
誰も見たことはないが、邪宗の伴天連(バテレン)の寺(教会)に似ていると人々は噂し合った。
天守閣はおおよそ完成していたが、下層階はまだ工事の半ばである。
湖は琵琶湖で、城は安土城であった。
おれは海を見たことがない、と金太郎はつぶやいた。
京で生まれ、京で育ったので海を知らない。
海は大きくて、青く、あの遙か彼方の唐土(もろこし)にまでつづいているという。
湖と海は違うのだろうか。
「金太郎、さっさと筆、洗ってこい!」
「はい」
「おい、金太郎!筆洗の水を替えろって言ってるだろうが……」
「はい」
「おい、膠(にかわ・膠液)はつくったのか?」
「はい、ただいま」
金太郎はまるで、おさんどんか、追い回しみたいに、兄弟子たちにこき使われていたのである。
金太郎は、その名前がきらいだった。
坂田の金時からの謂われだという。
武家でもあるまいし……。
天正四(一五七六)年、天下人・織田信長さまに請われて、兄ちゃん(狩野永徳)は、安土城の障壁画を制作することになった。
狩野の家にとっては、これほど大きな仕事は、かつてなかったのである。
永徳が三十四の歳であった。
織田信長――別名、第六天魔王。
魔王である……。
安土城は『天下布武』の象徴で、天守閣は、日本の宗教・思想を統一した『天道思想』を表現したものであるという。
天下統一にかけた強い思いを感じる。
信長さまをまだ一度も見たことがないが、いつも鬼のような形相をしているのではないかと想像していた。
金太郎は数えで十三になっていて、狩野の家の内弟子になっていた。
狩野家には、弟子が四十名ほどいて、各々が扇、団扇、屏風、掛け軸など、あらゆる絵画を手わけして描き販売していたのである。
そんな組織的な工房を金太郎の祖父である、狩野元信が創ったのである。
元信はまた、絵画の見本帳のようなものを作製し、弟子の誰が描いたとしても、寸分の狂いもなく描写できるという体裁を確立した人物なのだ。
狩野派といえば水墨画という心象があるが、それを打ち破り、彩色の技術を取り入れたのも元信だったという。
元信はその技法を得るために、大和絵の土佐光信の娘を嫁にもらっているのだ。
「あーあ、今日は乗らねえな……」
兄弟子の勘助がつぶやいて、面相筆を放り投げた。
「まったくだあな……」
やはり兄弟子の市造が言う。
世の中には、絵しか描けねえやつがいるんだ。
「うねに逢いてえよ」
うねというのは、京の六条三筋町の遊女のことである。
三筋町は歓楽街だった。
「あーあ、女の肌が恋しいぜ。いつまで、こんなど田舎に居なきゃなんねえんだよ!」
市造が怒った。
兄弟子たちは、金太郎が狩野松栄の子だということを知らされていない。
だから、永徳とは義兄弟になる。
独り立ちしてから、”狩野永劫”と名乗るようになった。
母は、誰なのか知らない。
◇
その朝、月山夫婦が”引っ越し荷物”を整理していると、見知らぬ初老の男が訪ねてきた。
「村長の赤橋です」
男が言う。
赤橋は小柄で、正直そうであり、実の父親のように見えた。
思い出はなかった。
否、思い出したくないといった方が正確だろう。
月山は、山形の限界集落で生まれた。
両親は今も健在で、その村に住み、わびしい寺院を営んでいる。
月山は幼いころから、そこから脱出することだけを考えていた。
坊主になる気など毛頭なかったが、都会に出られるのであれば、何でも良かったのである。
それで推薦(無試験)で、京都の大学に進学できることになり、願いが叶ったのだ。
家業を継ぐ訳でもなく、惰性で現在の職にありつき、十二分に満足していたのである。
生来の怠惰な性格ゆえ、意志などなく、いつも流されていた。
何の因果か、それが今回の派遣になった。
「どうも、はじめまして。こちらの方から、ご挨拶に行かねばならないのに、ありがとうございます」
月山が恐縮して言う。
「いやいや、引っ越して来られたばかりで、お忙しいと思いましてな」
赤橋はそう言ったが、不思議そうな顔で、月山をまじまじと眺めている。
「?」
「何か、変わったことはありませんでしたか?」
「えっ?と、申しますと……」
「い、いや、特には……」
「はあ?」
「……大丈夫ですか?」
「はい」
「そう、それは良かった。大佛(おさらぎ)さんのこともありましたからなあ……」
大佛というのは、前住職のことだ。
「あーあ……」
「心配だったのですよ」
「一体、何があったのですか?」
「大佛さんのこと?」
「ええ、そうです」
「さっぱり分からんのですよ」
赤橋が大きな溜め息をついた。
「……そうですか」
「事件が起こるような所ではないのですがねえ……」
「ねえ……」
と、賀歌が仏間の方から、やって来た。
「うん?」
月山がこたえる。
「あっ、ごめんなさい。お客さまだったんですね」
「ああ、村長の赤橋さんだ」
「どうも、はじめまして。賀歌です」
ぺこりと賀歌は頭を下げる。
「………」
赤橋は、賀歌の顔をまじまじと見つめるだけで、挨拶さえしない。
「?」
月山は、怪訝な表情で赤橋を見ていた。
つづく
第一話 屏風の虎
第四回
◇
その朝、湖は、死んだように美しかった。
朝日を浴びた水面は金色に輝いて、神々しく、数羽の都鳥(ユリカモメ)が波間に浮かんでいるのが見える。
その城は、まるで雲を突き抜け、天にまで届くのではないかと思われるほどの威容を示していた。
誰も見たことはないが、邪宗の伴天連(バテレン)の寺(教会)に似ていると人々は噂し合った。
天守閣はおおよそ完成していたが、下層階はまだ工事の半ばである。
湖は琵琶湖で、城は安土城であった。
おれは海を見たことがない、と金太郎はつぶやいた。
京で生まれ、京で育ったので海を知らない。
海は大きくて、青く、あの遙か彼方の唐土(もろこし)にまでつづいているという。
湖と海は違うのだろうか。
「金太郎、さっさと筆、洗ってこい!」
「はい」
「おい、金太郎!筆洗の水を替えろって言ってるだろうが……」
「はい」
「おい、膠(にかわ・膠液)はつくったのか?」
「はい、ただいま」
金太郎はまるで、おさんどんか、追い回しみたいに、兄弟子たちにこき使われていたのである。
金太郎は、その名前がきらいだった。
坂田の金時からの謂われだという。
武家でもあるまいし……。
天正四(一五七六)年、天下人・織田信長さまに請われて、兄ちゃん(狩野永徳)は、安土城の障壁画を制作することになった。
狩野の家にとっては、これほど大きな仕事は、かつてなかったのである。
永徳が三十四の歳であった。
織田信長――別名、第六天魔王。
魔王である……。
安土城は『天下布武』の象徴で、天守閣は、日本の宗教・思想を統一した『天道思想』を表現したものであるという。
天下統一にかけた強い思いを感じる。
信長さまをまだ一度も見たことがないが、いつも鬼のような形相をしているのではないかと想像していた。
金太郎は数えで十三になっていて、狩野の家の内弟子になっていた。
狩野家には、弟子が四十名ほどいて、各々が扇、団扇、屏風、掛け軸など、あらゆる絵画を手わけして描き販売していたのである。
そんな組織的な工房を金太郎の祖父である、狩野元信が創ったのである。
元信はまた、絵画の見本帳のようなものを作製し、弟子の誰が描いたとしても、寸分の狂いもなく描写できるという体裁を確立した人物なのだ。
狩野派といえば水墨画という心象があるが、それを打ち破り、彩色の技術を取り入れたのも元信だったという。
元信はその技法を得るために、大和絵の土佐光信の娘を嫁にもらっているのだ。
「あーあ、今日は乗らねえな……」
兄弟子の勘助がつぶやいて、面相筆を放り投げた。
「まったくだあな……」
やはり兄弟子の市造が言う。
世の中には、絵しか描けねえやつがいるんだ。
「うねに逢いてえよ」
うねというのは、京の六条三筋町の遊女のことである。
三筋町は歓楽街だった。
「あーあ、女の肌が恋しいぜ。いつまで、こんなど田舎に居なきゃなんねえんだよ!」
市造が怒った。
兄弟子たちは、金太郎が狩野松栄の子だということを知らされていない。
だから、永徳とは義兄弟になる。
独り立ちしてから、”狩野永劫”と名乗るようになった。
母は、誰なのか知らない。
◇
その朝、月山夫婦が”引っ越し荷物”を整理していると、見知らぬ初老の男が訪ねてきた。
「村長の赤橋です」
男が言う。
赤橋は小柄で、正直そうであり、実の父親のように見えた。
思い出はなかった。
否、思い出したくないといった方が正確だろう。
月山は、山形の限界集落で生まれた。
両親は今も健在で、その村に住み、わびしい寺院を営んでいる。
月山は幼いころから、そこから脱出することだけを考えていた。
坊主になる気など毛頭なかったが、都会に出られるのであれば、何でも良かったのである。
それで推薦(無試験)で、京都の大学に進学できることになり、願いが叶ったのだ。
家業を継ぐ訳でもなく、惰性で現在の職にありつき、十二分に満足していたのである。
生来の怠惰な性格ゆえ、意志などなく、いつも流されていた。
何の因果か、それが今回の派遣になった。
「どうも、はじめまして。こちらの方から、ご挨拶に行かねばならないのに、ありがとうございます」
月山が恐縮して言う。
「いやいや、引っ越して来られたばかりで、お忙しいと思いましてな」
赤橋はそう言ったが、不思議そうな顔で、月山をまじまじと眺めている。
「?」
「何か、変わったことはありませんでしたか?」
「えっ?と、申しますと……」
「い、いや、特には……」
「はあ?」
「……大丈夫ですか?」
「はい」
「そう、それは良かった。大佛(おさらぎ)さんのこともありましたからなあ……」
大佛というのは、前住職のことだ。
「あーあ……」
「心配だったのですよ」
「一体、何があったのですか?」
「大佛さんのこと?」
「ええ、そうです」
「さっぱり分からんのですよ」
赤橋が大きな溜め息をついた。
「……そうですか」
「事件が起こるような所ではないのですがねえ……」
「ねえ……」
と、賀歌が仏間の方から、やって来た。
「うん?」
月山がこたえる。
「あっ、ごめんなさい。お客さまだったんですね」
「ああ、村長の赤橋さんだ」
「どうも、はじめまして。賀歌です」
ぺこりと賀歌は頭を下げる。
「………」
赤橋は、賀歌の顔をまじまじと見つめるだけで、挨拶さえしない。
「?」
月山は、怪訝な表情で赤橋を見ていた。
つづく
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