怪譚 屏風の虎
怪譚 屏風の虎
第一話 屏風の虎
第八回
◇
炎のはぜる音がした。
母屋につけた紅蓮の火は、ますます勢いを増し、軒下にまで届きそうになっている。
金太郎はぼーっと火を眺めていたが、だんだん怖くなってきた。
「うぉおおおおおっ!」
と、熱さで頬を紅潮させて叫んだ。
いくら狩野の家を憎んでいるとはいえ、犯科(ぼんか)は犯科である。
「火事だーっ、火事だーっ!」
いつしか金太郎は、そう絶叫していた。
その叫びを聞いて、母屋から、弟子たちの住む離れから、人がどっと飛び出してきたのである。
「うわーっ、やべえ!火事だ、火事だ!」
兄弟子の勘助が怒鳴る。
「火事だー、みんな起きろ!火事だぞー!」
と、やはり兄弟子の市造が叫ぶ。
「水だー、水だー!」
間髪を入れず、勘助がわめく。
「早く早く、誰か桶に水くんで来い!」
市造の言葉に、他の弟子たちが慌てて井戸へ向かう。
不安そうな目で永徳と松栄が、その様子を眺めている。
それから弟子たちの連携で、水の入った桶を順々に手渡しで運び、燃えさかる炎にぶちまける。
もちろん、その連携の中に、金太郎の姿があったのは言うまでもない。
緊迫した時間がつづいたが、何度か水をかけていると、やがて火は小さくなり、最後にはじゅっと音をたてて消え去った。
そこにいる一同が安堵の溜め息をつく。
誰もが、それを不審火とは感じず、手を取り合って喜ぶのだった。
しかし、ひとつの鋭い眼差しが、金太郎の姿を追っている。
「………」
祖父の元信だった。
◇
「お呼びですか?」
金太郎が、ひょこっと会釈して言った。
「おお、来たか。まあ、入んな」
その部屋には元信がいて、屏風絵を描いていた。
「はい」
「墨をすってくれ。それと膠もな」
「はい」
元信は、六曲の屏風に芭蕉を描いている。
――すげえ!
その屏風絵を見て、金太郎は驚いた。
画面には、背景に金泥がほどこされ、深緑色をした大ぶりの芭蕉の葉が描かれている。
それだけなのだ。
いたって簡素なのだが、それでも、その迫力に圧倒され、画面に目が釘付けにされるのである。
「久々に描いておられるんですか?」
金太郎が訊く。
「……うむ」
元信はすでに隠居していて、家督は息子の松栄に譲っていた。
「……半双なんですか?」
「いいや、違う。もう片方には、この葉っぱにほんのり淡雪が積もっている図にするつもりだ」
六曲一双『夏冬芭蕉図屏風』――
「……親方」
「ああ?」
「おれが言うのも何なのですが……」
「うん?」
「すごいです」
「おいおい、まだ未完だぞ」
「そうなんですが、傑作になる予感が……」
「まあ、完成してから批評を聞こう」
「はい」
「しかし……」
「はあ?」
「おまえは、やっぱり絵が好きなんだな」
金太郎は頬を真っ赤にして、うつむく。
「小僧……」
「はあ?」
「そんなにこの家がきらいか?」
金太郎は、先日の火付けがばれていると感じた。
「きらいか?」
「……よく」
「うん?」
「よく分からないです」
「分からない?」
「………」
「……絵を描く前、礬水(どうさ)を引くよな」
「……はっ?」
「それをやらないと、せっかく描いた力強い線も滲んでしまって台無しだよな」
「はあ?」
礬水を引くとは、水に膠 (にかわ) と明礬 (みょうばん) を溶かしたものを、制作前にあらかじめ紙や絹の上に塗っておき,墨や岩絵の具等のにじみを防ぐことをいう。
「絵描きは、礬水みたいなもんじゃねえか」
「どういう意味ですか?」
「絵描きと観る者を繋ぐってことだ」
「……はあ」
「春の野辺にある菜の花は誰もが観賞することが出来るが、真冬では無理だ」
「そうですね」
「それを季節外れでもみせることが出来るのが、絵描きの技じゃねえのかな」
「はい」
「夢のある仕事だと思わないか?」
「……はあ」
「本気で絵描きになるつもりなら、何年か、ここで修行しったって遅くはないと思うぞ」
「………」
金太郎は答えなかった。
◇
湖は、真の闇の中にあった。
先ほどまで対岸にあった埋み火のような小さな火は、やがて轟々と音をたて、巨大な炎に変える。
その夜は、南からの強い風が吹いていた。
小さな火は、そんな強風にあおられ、地獄の業火のごとく燃えさかり、もう誰の手にも負えなくなっている。
天守閣から無数に落ちる火の粉は、まるで鬼火のように見えた。
「これで良いんだ、これで良いんだ!」
少年は、自分に言い聞かせるようにつぶやく。
心象風景は、いつの日か目の前にあらわれる。
「……兄ちゃん」
少年が、ぼそっととつぶやいた。
天正十(一五八二)年六月十五日、織田信長の本拠であった安土城は炎上消滅した。
つづく
第一話 屏風の虎
第八回
◇
炎のはぜる音がした。
母屋につけた紅蓮の火は、ますます勢いを増し、軒下にまで届きそうになっている。
金太郎はぼーっと火を眺めていたが、だんだん怖くなってきた。
「うぉおおおおおっ!」
と、熱さで頬を紅潮させて叫んだ。
いくら狩野の家を憎んでいるとはいえ、犯科(ぼんか)は犯科である。
「火事だーっ、火事だーっ!」
いつしか金太郎は、そう絶叫していた。
その叫びを聞いて、母屋から、弟子たちの住む離れから、人がどっと飛び出してきたのである。
「うわーっ、やべえ!火事だ、火事だ!」
兄弟子の勘助が怒鳴る。
「火事だー、みんな起きろ!火事だぞー!」
と、やはり兄弟子の市造が叫ぶ。
「水だー、水だー!」
間髪を入れず、勘助がわめく。
「早く早く、誰か桶に水くんで来い!」
市造の言葉に、他の弟子たちが慌てて井戸へ向かう。
不安そうな目で永徳と松栄が、その様子を眺めている。
それから弟子たちの連携で、水の入った桶を順々に手渡しで運び、燃えさかる炎にぶちまける。
もちろん、その連携の中に、金太郎の姿があったのは言うまでもない。
緊迫した時間がつづいたが、何度か水をかけていると、やがて火は小さくなり、最後にはじゅっと音をたてて消え去った。
そこにいる一同が安堵の溜め息をつく。
誰もが、それを不審火とは感じず、手を取り合って喜ぶのだった。
しかし、ひとつの鋭い眼差しが、金太郎の姿を追っている。
「………」
祖父の元信だった。
◇
「お呼びですか?」
金太郎が、ひょこっと会釈して言った。
「おお、来たか。まあ、入んな」
その部屋には元信がいて、屏風絵を描いていた。
「はい」
「墨をすってくれ。それと膠もな」
「はい」
元信は、六曲の屏風に芭蕉を描いている。
――すげえ!
その屏風絵を見て、金太郎は驚いた。
画面には、背景に金泥がほどこされ、深緑色をした大ぶりの芭蕉の葉が描かれている。
それだけなのだ。
いたって簡素なのだが、それでも、その迫力に圧倒され、画面に目が釘付けにされるのである。
「久々に描いておられるんですか?」
金太郎が訊く。
「……うむ」
元信はすでに隠居していて、家督は息子の松栄に譲っていた。
「……半双なんですか?」
「いいや、違う。もう片方には、この葉っぱにほんのり淡雪が積もっている図にするつもりだ」
六曲一双『夏冬芭蕉図屏風』――
「……親方」
「ああ?」
「おれが言うのも何なのですが……」
「うん?」
「すごいです」
「おいおい、まだ未完だぞ」
「そうなんですが、傑作になる予感が……」
「まあ、完成してから批評を聞こう」
「はい」
「しかし……」
「はあ?」
「おまえは、やっぱり絵が好きなんだな」
金太郎は頬を真っ赤にして、うつむく。
「小僧……」
「はあ?」
「そんなにこの家がきらいか?」
金太郎は、先日の火付けがばれていると感じた。
「きらいか?」
「……よく」
「うん?」
「よく分からないです」
「分からない?」
「………」
「……絵を描く前、礬水(どうさ)を引くよな」
「……はっ?」
「それをやらないと、せっかく描いた力強い線も滲んでしまって台無しだよな」
「はあ?」
礬水を引くとは、水に膠 (にかわ) と明礬 (みょうばん) を溶かしたものを、制作前にあらかじめ紙や絹の上に塗っておき,墨や岩絵の具等のにじみを防ぐことをいう。
「絵描きは、礬水みたいなもんじゃねえか」
「どういう意味ですか?」
「絵描きと観る者を繋ぐってことだ」
「……はあ」
「春の野辺にある菜の花は誰もが観賞することが出来るが、真冬では無理だ」
「そうですね」
「それを季節外れでもみせることが出来るのが、絵描きの技じゃねえのかな」
「はい」
「夢のある仕事だと思わないか?」
「……はあ」
「本気で絵描きになるつもりなら、何年か、ここで修行しったって遅くはないと思うぞ」
「………」
金太郎は答えなかった。
◇
湖は、真の闇の中にあった。
先ほどまで対岸にあった埋み火のような小さな火は、やがて轟々と音をたて、巨大な炎に変える。
その夜は、南からの強い風が吹いていた。
小さな火は、そんな強風にあおられ、地獄の業火のごとく燃えさかり、もう誰の手にも負えなくなっている。
天守閣から無数に落ちる火の粉は、まるで鬼火のように見えた。
「これで良いんだ、これで良いんだ!」
少年は、自分に言い聞かせるようにつぶやく。
心象風景は、いつの日か目の前にあらわれる。
「……兄ちゃん」
少年が、ぼそっととつぶやいた。
天正十(一五八二)年六月十五日、織田信長の本拠であった安土城は炎上消滅した。
つづく
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