怪譚 屏風の虎
怪譚 屏風の虎
第一話 屏風の虎
第十回
その朝、月山はまじまじと虎の屏風を眺めていた。
六曲一双の屏風で、経年による劣化が著しく、背景に金箔が施してあったが、所々にハゲが目立った。
右隻(うせき)には、墨による竹林の中で、一頭の虎が寝そべっている図で、左隻(させき)には、もう一頭の虎が大空にむかって咆哮する姿が描かれている。
墨の濃淡によって、画面に奥行きが出来、虎の毛先一本一本にまで丹念に彩色されて光り輝いていた。
月山は、国宝になるかも知れないその屏風絵を見ても、何の感情もわき上がって来なかった。
名画だということは理解出来るが、あまりに普通だったからである。
作者の”毒”のような悪意ある画風ではなかったし、素直な心情が画面に表出している。
それでも、技巧的には狩野派の中でも屈指だったし、武家が気に入りそうな題材でもあったが、真新しさを感じることが出来なかった。
しかし、近ごろでは、その考えが変わったのである。
やはり、 明月が言うように、紛れもなく傑作であると思い直したのだ。
虎の目は、餓えて獲物を狙うそれで、まるで観る者をも威嚇するような鋭さがある。
無論、日本画であるし、また、狩野派の画風でもあるので、力強い線、計算された構図、あざやかな彩色、みなぎる躍動感……があふれている。
間違いなく国宝級であった。
本当に、この虎が抜け出してきたのだろうか?
――馬鹿な!
そんなことが有り得るのか?
夢とはいえ、気絶したのは事実であったし、躰の傷も残っている。
月山はノイローゼになりそうだった。
台所で、賀歌が洗い物をしながら、鼻唄を歌っているのが聞こえる。
しかし、なぜ、妻はこのタイミングで帰ってきたのだろうか?
おかしくないか?
――……おれは本当に妻を愛しているのだろうか?
月山は慌てて首をふる。
自分のおぞましい思いに、自身が驚いている。
「あなたー、ねえ、あなたー!」
賀歌の呼ぶ声が聞こえる。
「おーい、ここにいるー!」
月山が答える。
「ちょっと手伝って-!」
「わかった、すぐ行くー!」
と、月山が台所に向かおうとした。
ぐるるる。
突然、猫が喉を鳴らしたような声が聞こえた。
「!」
月山は吃驚して、後ろをふり向く。
そこには、虎の屏風があるだけだった。
――……嘘だろ?
月山は震えながら、台所へ小走りに行った。
◇
――名前は?
……なぎの、……梛野賀歌です。
――年齢?
二十です。
――職業?
主婦です。
――今日は何でここへ?
………。
――答えろ!
……よく。
――ああ?
……よく分からないんです。
――浮気してるのか?
してません。
あの人は疑って(い)るようですけど……。
――あの人とは?
……夫です、梛野月山です。
――……それで?
夫は疑問に思って(い)るようですが、何処で知り合うというのでしょうか。
交番さえない、こんな田舎で、どんな巡り逢いがあるというのでしょう。
――疑われるようなことをしたからだろう?
いいえ、違います。父は本当に病気なんです。
持病の高血圧が悪化したんです。
大事には至りませんでしたけど……。
電話に出たのは、三つ違いの兄だったんです。
でも、信じてはくれません。
――……言い訳丸出しだな。
そんなことありません。実際に、旅館はいま、ムチャクチャ忙しいんです。
外国人のお客さまが増え、英語が苦手な父や兄では、うまく回らなくって……。
それが、私がかり出されて、手伝うようになった理由です。
――他に言っておきたいことは?
あの人の頭には、セックスのことしかないんです。
(い)やらしい!
女が嫌がれば、夫は我慢すべきでしょう。
この間だって、私が入浴しているとき、こっそり盗み見してたんですよ。
あー、(い)やだ、(い)やだ!
別れたって構わないです。
請われたから、仕方なく結婚したまでで。
かわいそうだと思って。
後悔って訳じゃないんですけど、時々考えるんですよね。
何で結婚したのか、と。
あの人、この村に来てから痩せたんですよ。
食事も喉に通らないみたいで。
いつも、ぶつぶつ呟いて(い)るんです。
眠れないって……。
バカみたい。
――……気が済んだか?
……ええ、まあ。
今度、不倫なるものを試してみようかと思います。
いつの時代も、やった者勝ち、やり続けた者勝ちですもんね。
それとも……。
――……それとも?
……うふっ。
つづく
第一話 屏風の虎
第十回
その朝、月山はまじまじと虎の屏風を眺めていた。
六曲一双の屏風で、経年による劣化が著しく、背景に金箔が施してあったが、所々にハゲが目立った。
右隻(うせき)には、墨による竹林の中で、一頭の虎が寝そべっている図で、左隻(させき)には、もう一頭の虎が大空にむかって咆哮する姿が描かれている。
墨の濃淡によって、画面に奥行きが出来、虎の毛先一本一本にまで丹念に彩色されて光り輝いていた。
月山は、国宝になるかも知れないその屏風絵を見ても、何の感情もわき上がって来なかった。
名画だということは理解出来るが、あまりに普通だったからである。
作者の”毒”のような悪意ある画風ではなかったし、素直な心情が画面に表出している。
それでも、技巧的には狩野派の中でも屈指だったし、武家が気に入りそうな題材でもあったが、真新しさを感じることが出来なかった。
しかし、近ごろでは、その考えが変わったのである。
やはり、 明月が言うように、紛れもなく傑作であると思い直したのだ。
虎の目は、餓えて獲物を狙うそれで、まるで観る者をも威嚇するような鋭さがある。
無論、日本画であるし、また、狩野派の画風でもあるので、力強い線、計算された構図、あざやかな彩色、みなぎる躍動感……があふれている。
間違いなく国宝級であった。
本当に、この虎が抜け出してきたのだろうか?
――馬鹿な!
そんなことが有り得るのか?
夢とはいえ、気絶したのは事実であったし、躰の傷も残っている。
月山はノイローゼになりそうだった。
台所で、賀歌が洗い物をしながら、鼻唄を歌っているのが聞こえる。
しかし、なぜ、妻はこのタイミングで帰ってきたのだろうか?
おかしくないか?
――……おれは本当に妻を愛しているのだろうか?
月山は慌てて首をふる。
自分のおぞましい思いに、自身が驚いている。
「あなたー、ねえ、あなたー!」
賀歌の呼ぶ声が聞こえる。
「おーい、ここにいるー!」
月山が答える。
「ちょっと手伝って-!」
「わかった、すぐ行くー!」
と、月山が台所に向かおうとした。
ぐるるる。
突然、猫が喉を鳴らしたような声が聞こえた。
「!」
月山は吃驚して、後ろをふり向く。
そこには、虎の屏風があるだけだった。
――……嘘だろ?
月山は震えながら、台所へ小走りに行った。
◇
――名前は?
……なぎの、……梛野賀歌です。
――年齢?
二十です。
――職業?
主婦です。
――今日は何でここへ?
………。
――答えろ!
……よく。
――ああ?
……よく分からないんです。
――浮気してるのか?
してません。
あの人は疑って(い)るようですけど……。
――あの人とは?
……夫です、梛野月山です。
――……それで?
夫は疑問に思って(い)るようですが、何処で知り合うというのでしょうか。
交番さえない、こんな田舎で、どんな巡り逢いがあるというのでしょう。
――疑われるようなことをしたからだろう?
いいえ、違います。父は本当に病気なんです。
持病の高血圧が悪化したんです。
大事には至りませんでしたけど……。
電話に出たのは、三つ違いの兄だったんです。
でも、信じてはくれません。
――……言い訳丸出しだな。
そんなことありません。実際に、旅館はいま、ムチャクチャ忙しいんです。
外国人のお客さまが増え、英語が苦手な父や兄では、うまく回らなくって……。
それが、私がかり出されて、手伝うようになった理由です。
――他に言っておきたいことは?
あの人の頭には、セックスのことしかないんです。
(い)やらしい!
女が嫌がれば、夫は我慢すべきでしょう。
この間だって、私が入浴しているとき、こっそり盗み見してたんですよ。
あー、(い)やだ、(い)やだ!
別れたって構わないです。
請われたから、仕方なく結婚したまでで。
かわいそうだと思って。
後悔って訳じゃないんですけど、時々考えるんですよね。
何で結婚したのか、と。
あの人、この村に来てから痩せたんですよ。
食事も喉に通らないみたいで。
いつも、ぶつぶつ呟いて(い)るんです。
眠れないって……。
バカみたい。
――……気が済んだか?
……ええ、まあ。
今度、不倫なるものを試してみようかと思います。
いつの時代も、やった者勝ち、やり続けた者勝ちですもんね。
それとも……。
――……それとも?
……うふっ。
つづく
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