怪譚 屏風の虎

怪譚 屏風の虎
第一話 屏風の虎
第十二回

     五、黒いささやき
 その朝、金太郎は元信に命じられて、膠液をつくっていた。
 元信は、『夏冬芭蕉図屏風』の制作に没頭している。
 狩野の屋敷は、京都御所の西、晴明神社の東にある。
 中庭にあるイロハモミジの新緑が、光り輝いていた。
 安土城の障壁画はようやく完成し、永徳をはじめ他の弟子たちは、別の仕事場に出張っていたのである。

 作品群は、城主・信長公におおむね気に入られたようであった。
「金太郎……」
 面相筆を置いて、元信が言った。
「はい?」
 金太郎が元信を見る。

「どうだった?永徳の絵画は……」
「すごいです。すばらしいです」
「えらい惚れようだな」
「極楽浄土は、あんな風景ではないでしょうか」
 すべての表現物は、時代を映す鏡でなければならない。
 それが古典であってもだ。

「ほう。それにしても、べた褒めだな……」
「汚してはいけないと思います」
 金太郎は素直に言った。
「……そうか。わしも、足の調子が良ければ観に行くんだが」
 元信は加齢による神経痛で、膝の具合がよくなかった。
 京の都から、安土までは遠い。

「足の具合が良くなったら、行きましょうよ」
「……そうだなあ」
「はい」
「ところで、おまえのおっ母さんのことなんだが……」
「えっ?」
 金太郎は、実の母親については、何も知らなかった。

 実父は紛れもなく狩野松栄であったが、母は誰だか教えられてはいない。
 三筋町の遊女や、二条柳町の太夫という噂もあったし、さる高貴な公家の子女というのもあった。
 松栄もなぜか沈黙していて、手がかりさえなく、生存の有無も分からなかったのである。

「知りたくないか?」
 元信が訊く。
「……そ、そりゃあ」
 金太郎は答えられなかった。
「だろうな……」
「何でまた突然?」
「うん、それがな……」

 人が駆ける足音がして、
「た、大変だー、大変だー!」
 兄弟子の勘助が叫びながら、やって来た。
「うるせーぞ!」
 元信が怒鳴る。
「大親方、それが大変なんですよ!」

「どうした?」
「信長さまがー、信長さまがー!」
「信長さまがどうした?」
「――殺されました!」
 その日の早朝、本能寺で臣下の背信にあい、織田信長が謀殺されたという。
 信長公は自害して、寺に火をつけたらしい。

「な、何ー!」
 元信が叫ぶ。
「!」
 金太郎は信じられず、頭が真っ白になっている。
 業火に焼かれたのか、信長公の遺体は見つからなかったという。

     ◇
 その夜も、月山は悪夢に悩まされていた。
 その前の夜も、その前の前も、その前の前の前、だったのである。
 眠れなくなった。
 これで何日目だろう。
 また闇が、語りかけて来る。
黒いささやきだ。

 ――おまえは、そのまま童貞で死ぬんだな……。
 闇がつぶやく。
 違う、おれは童貞ではない。結婚していたし……。
 月山が言った。

 ――童貞みたいなもんじゃねえか。
 ………。
 ――やっちまえよ。
 ………。
 ――意気地なし。
 ……無理だ。

 ――なぜ?おまえらは夫婦だろ。
……そうなんだが。
 ――あーあ、おまえのところは、”婦唱夫随”だったな。かっかかかか。
……うるせえ。
 ――おまえはかつて、文学少年だったよな?
 ……ああ、まあ。

 ――だったらさ、安吾の『桜の森の満開の下』や、芥川の『藪の中』を読んだだろう?
 うん。
 ――だから、山賊は女かっさらって来て、やっちまうんだよ。
 ……そうなんだが。

――ごちゃごちゃ言ってねえで、やっちまえば良いんだよ。
 ………。
 ――やっちまって、やっちまえば良いんだよ。
 やっちまって、やっちまう?どういう意味だ?

 ――言葉通りさ。面倒な女は、そうすりゃあ良いんだよ。
 何を言ってるんだ。
――おまえは、あの女と一緒にいるかぎり、報われねえよ。
 ……それは関係ないだろう。
 ――おおいにあるさ。あの女は、おまえのことなんか、何とも思っちゃいねえんだから。
 ……あのー。

 ――うん?
 もう寝るよ。
――えっ?
 眠くなった。寝るよ。
 ――眠れないくせに。ふっふぁふぁふぁ。
 ……おやすみ。
――まあ、考えておけや。
 闇はそう言って、それから何も語らなくなった。
                  つづく









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