THE 読物 ~東 月彦の小説~

連載33 微笑のあと


 年老いたバーテンの川奈が、バカラのグラスを磨いていた。
 マイルスのクールなバラードが流れている。


 壁面には紫檀が施され、マルニのマホガニーの椅子、マリー・ローランサンのエッチングが飾ってあり、シックで重厚なインテリアだった。


 清方は、マティーニのスタッフドオリーブを弄んでいる。
 雪乃が営むバーだった。


 開店早々の時間帯だったので、客は彼以外にはいない。
 その夜の雪乃は、クリーム地に茶屋辻模様の色留袖、花立涌模様の袋帯という上品な装いだった。
 彼女は今、ボヘミアンの花瓶に、カサブランカと霞草を生けている。


「・・・・・」
 至福の時だった。
 清方は雪乃に夢中になっていた。
 彼女は相変わらず美しかったし、ここに来ると時間が止まったように感じてしまう。


 雪乃は、色はカサブランカより白かったし、深い二重の瞼、つんと上を向いた鼻先、頬は微笑する霞草のように愛らしかった。


「あんまり飲んだら、あかんよ」
 老バーテンが厨房に行ったので、小さな声で雪乃が言った。
「何で?」
 清方が訊く。


「何でって・・・・」
「さっさと酔っ払って、きみの部屋で待ってようかなあ・・・・」


「・・・・・」
 雪乃は声を出さずに“あ・ほ”と口唇を動かし、微笑する。
「・・・・・」
 清方はその言葉を指でぴんと弾いて、にやっと笑う。


 バーテンが戻ってくると、取り繕うように雪乃が言った。
「今日は少し冷えるねえ・・・・」
「そうだね」
 清方が答える。
「・・・・・」
 川奈は寡黙に、ただ頷くだけだった。


 清方の携帯の呼び出し音が鳴った。
 義母の典子からだ。
「もしもし、清方さん?」
「はい」
 典子から、携帯に電話があることなど初めてのことだった。


「ごめんなさいね、携帯に電話しちゃって・・・・。どうしても、お話しとかないと駄目だと思って」
「どうかしましたか?」
 不審そうに見ている雪乃の視線を感じる。


「今、少し良いかしら?」
「ええ」
「千子のことなんだけど・・・・」
「はい?」


「清方さん、最近、あの子、変わったことない?」
「・・・・いえ、別に」
「そう。あたしの思い違いかしらね・・・・」
「何か、あったんですか?」


「実はね・・・・」
 典子は、先日のスーパーでの出来事を話し始める。
「・・・・はあ。ただ、転んだだけじゃないでしょうか?」
「違うのよ、絶対に違うのよ!」
 強い口調で、典子は言う。


「はあ?」
「こんなこと、言いたくないんだけど、あの子、病気じゃないかと思って・・・・」
「――まさか。今朝だって、ぴんぴんしてましたよ」
「そうなんだけど・・・・」


「お義母さんの思い過ごしですよ」
「・・・・そうかしら」
「そうですよ」


「あたしの見間違いだと良いんだけど・・・・」
「・・・・はい?」


「あの子、左目が見えてないのよ」
「えーっ?」
 清方は大きな声を出していた。
                                          つづく






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