怪譚 屏風の虎

 怪譚 屏風の虎
 第一話 屏風の虎
 第五回

 その夜、賀歌は般若心経を写経していた。
 静謐に硯(すずり)をうち、真摯に用紙にむかい、一心に筆をすべらせる。
 かすかな息づかいだけが聞こえる。

 どんな願いがあるというのか。
 何を祈るというのか。
 尋ねてみたかったが、曖昧に軽く一蹴されそうなので聞かなかった。
 月山は不安をおぼえる。

「何かさあ……」
 賀歌が、筆を置いて言う。
「うん?」
 月山が訊く。
「変な村長さんだよね」
 赤橋のことだ。
「……あーあ」

「じろじろ人のこと見てさあ……。感じ悪いよね」
「……そうだよね」
「気分悪かったわよ」
「……たぶん」
「ええ?」

「目が悪いんじゃないかな……。緑内障とか……」
「……そうかしら」
「たぶんね……」
「うーん」
「まあ、うまくやってよ」
「……うん」

 時々、不思議に思う。
 賀歌はなぜ、おれと結婚したのだろうか、と。
 しかし、いつもすぐに首を振り、その思いを停止する。
 考えると、妻が逃げて行きそうで怖かった。

「さてと……」
 と、賀歌はてきぱきと書の道具を片付けはじめる。
「寝る?」
「ええ。何か今日はひどく疲れたの」
「……そう」

「じゃあ、おやすみ」
「……おやすみ」
 賀歌は、寝室へ向かう。
 夫婦は結婚して、およそ一年になる。
 夜ごと、寝室は別々だ。
 月山は、賀歌の手さえ握ったことはない。
 つまり、これまで性的な関係は一切なかったのである。

 月山が何度求めても、賀歌は激しく拒絶した。
 理由はよくわからない。
 賀歌に訊いても、いつも答えは有耶無耶だった。
 なだめてもすかしても思い通りにはならず、いつしか月山は疲れ果て、忘れるようにしたのである。
 そうでなければ、賀歌は別れを切り出したであろう。
 それでも、月山と賀歌は夫婦であった。


     ◇
 「今日から、うちに来ることになった金太郎だ。みんな、仲良くしてやってくれ」
 元信が言った。
「………」
 金太郎はぶすっとした表情で、挨拶さえしない。
「はい!」
 二十名ほどいる弟子が答える。

 松栄と永徳と他の弟子たちは、それぞれの依頼主先に出張っているようであった。
 棟梁は松栄であるが、隠居したとはいえ元信はやはり隠然たる力を持っているようである。
 それはそうであろう、一介の町絵師から、一世を風靡し一派を築き上げたのだから。
 金太郎はそのとき、数えで八つであった。

「どうしようもねえ悪ガキだが、よろしく頼む」
 にやにやしながら元信が言う。
「――――」
 金太郎は頬を真っ赤にして、うつむく。
「へえ!」
 弟子たちが答えた。
 金太郎は三歳のときに、衣笠山にある御寺に、小僧になるべく里子として出されたのである。
 無論、父親は松栄であったが、母方の手によって、それまでは育てられられた。

 しかし、金太郎は手癖が悪く、供え物を盗み喰いをするわ、賽銭は盗るわ、で寺では持て余していたのだ。
 それで仕方なく、狩野の家が引き取ることになったのである。

 母親は誰だかわからない。
 寺の修行僧が、六条三筋町の女だろうと噂しているのを聞いたことがあった。
 金太郎は思わず、その修行僧を殴ったのである。
 なぜ、自分だけこんな辛い目にあわなければならないのか。
 世間のすべての事柄にむかついていた。
 金太郎からすれば、いずれその寺から逃げ出す気だったのである。

 それに、松栄が金太郎を見るその目が許せなかった。
 まるで異物であり、肉親としての愛情のかけらもなかったのである。
 その瞳には、本当にわが子なのかと、強い疑義が宿っていた。
 なぜ、そんな家に住まねばならないのか。

「小僧、絵は好きか?」
 廊下を歩きながら、元信が訊く。
 むくれた金太郎は答えない。
 元信がちらっと金太郎を見て、
「……まあ、ええわ」
「………」

「だが、弟子ってのは、面白いな」
「……?」
「鏡なんだな」
「へっ?」
「弟子を見れば、師匠が見える」
「……むかつく」
金太郎がぽつんと言った。

「何か言ったか?」
「……い、いや」
「まあ、おいおいこの家にも慣れるだろう」
「……けっ!」
 その夜、金太郎は母屋に火をつけた。
                       つづく

*この物語は、フィクションです。








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